我唯足るを知る──禅の教えとあるアメリカ人
@京都 龍安寺
石と小石だけで小世界を作り上げる龍安寺の石庭は「何もないもの」が「すべて」を表現する。
合理主義に疲れた外国人が石庭に佇み謎解きを楽しむ。
その後、彼、彼女らはぐるっと裏手に回りお茶室の存在を暗示する手水鉢に出会う。そこでもさらなる謎解きが待っていた。
丸い手水鉢には中央に口の字を取り入れて、四つの文字が書かれている。
我、唯、足、知。つまり「我唯足るを知る」。
茶室に入る前に禅の教えを説いたこの言葉は漢字を解さない外国人には理解不可能だから、私はそこでその教えを少しでも理解してもらうためにわかりやすく説明をする。
禅の教えは西洋人にとってあこがれだ。
60年代に禅がもてはやされたのも戦争に疲れ、何が本物かを知りたかった彼らが当然行き着いた場所だったのかもしれない。
今もこのZENという響きは特別のようで、ちょっと素敵、おしゃれでシンプルなものの名に使われたりする。
私は仕事柄 世界中の人たちの質問や受け答え、要求などから、その御国柄を垣間み、そして彼らの生き様を感じる。
エストニアの彼らからはいつも、長い間抑圧されていた中から解放され,今本物を吸い取りたい、というエネルギー。
マレーシアの彼らからは明るさと優しさと西洋人のエゴを知っている知恵。
その中でアメリカ人には、自分の意見を徹底的にしゃべる事で、自分の存在を知らしめようとする人も多い。
主張することがアメリカ人として生きてゆくのに必要なのかもしれない。
アメリカに対しての憧れが強い日本人だが、アメリカの影の部分も知る事によってその憧れに近いイメージが変わる人も多いのではないかと思う。
龍安寺からの帰途の事。私はバスの中で、禅の思想をわかりやすく説明しようとしていた。
ちょうど龍安寺で買った風呂敷に円が描かれ、さきほどの四文字が書かれている。
それを見せながら、説明を始めた。
「私たち人間の欲求は限りがありません。家を手に入れると、すぐに大きめの家がまた欲しくなりますね。車を買うと、さらにいい車が欲しくなります。でも、自分自身の中に満足する、足る心を持っているとそれは収まります。この、足るを知る心、それは自分自身の中だけにあるのです」
ここまで説明したときに、バスの中にいた一人の女性が声を上げた。
「まり、なんて素敵な布なの! どこで買ったの? 私にそれを売ってくれる?」
カリフォルニアでも1、2を争うお金持ちの彼女は私の禅の教えなどは耳を素通りして、その素敵な風呂敷に釘付けになっていたようだ。
あまりにも面白いこのシチュエーションに、バスの中からも苦笑、笑いが出て、私も呆れたのを通り越し、一緒に笑ってしまった。
これは、あるミュージーアムのファンドレイザーたちの一行。お金持ちばかりのグループだった。
勝井まり